【テクニックに走ってない?】レイキの修得に本当に必要なのは〇〇だと思うこと
〇臼井甕男先生が霊氣を完成させるまでの道
臼井先生が霊氣を完成させるまでの大まかな経緯は次のようなものです。
生誕地は、岐阜県山県郡谷合村(現在の岐阜県山県市)である。
職業は、公務員、会社員、実業家、新聞記者、政治家後藤新平の秘書などさまざまに経験する。
その体験から「人生の目的とは何か」という大命題の探求から、禅の道に入り、真の悟りともいえる安心立命(あんじんりゅうめい)の境地を目指し修行するも、どうしても悟りを得られず、悩みぬいた末に禅の師に相談したところ、
「それなら一度死んでごらん」
と答えられ、「自分の人生も、もはやこれまで」という覚悟を決め、1922年春(3月または4月と、文献によって記載が異なる)に京都の鞍馬山にこもって断食を始める。修行のための断食と言うよりは、死を覚悟してのものだったらしい。
断食に入り3週間目の真夜中ごろ、脳の中心部あたりに落雷をうけたような激烈な衝撃を感じ、そのまま意識不明の状態に陥る。 数時間後、ふと気がつくと夜が明け始めた頃で、心身爽快な気分に満ちて目覚め、その衝撃のときに感じたエネルギーが心身を貫き、体内との共鳴、一体感を達成し、求めていた悟りの境地を完成したことを知る。
〇「一度死んでごらん」の本当の意味は何だったんだろう!?
臼井先生がどうしても悟りを得られず、禅の師に相談したところ、「それなら一度死んでごらん」と答えられたということです。禅の師とほかに何か会話があったのかどうかは知るすべもありませんが、「それなら一度死んでごらん」というのをもう少し嚙み砕いて説明しても良かったのかもしれません。
悟りは智慧とも表現されますが、臼井先生が智慧(悟り)を得たと考えると、以下の条件を満たすことができたということなのでしょう。
1)こころは完全にリラックスできること。
2)主観を捨てられること。
3)真剣に精密にサティの実践できること。
4)こころを統一することができること。
5)あいまいな中途半端な生き方を止めること。
6)過去に惹かれないこと。
7)将来に更けないこと。
8)今の瞬間を確実に観察できること。
(引用:日本テーラワーダ仏教協会)
つまり、これが智慧(悟り)の条件であるならば、逆に日常生活で「人が、どのように生に束縛されているか」ということになります。
したがって、「それなら一度死んでごらん」という言葉の真意は、「人が、どのように生に束縛されているか」ということに気づきを得なさいということだと思うのです。
「生に束縛されていること」それが、その人の智慧(悟り)を妨げているので、逆に「生に束縛されていないこと」が智慧(悟り)の条件となります。
〇レイキの修得には、テクニックに走らずに人格者になる努力をしてみませんか
世界で普及している西洋レイキの多くでは、アチューンメント(伝授)を受ければ、レイキを使えるようになると習います。
そこに人格者になる努力などは含みません。精神の状態も含みません。アチューンメント(伝授)さえ受ければ誰でも使えると習うのです。
本当にそうなのでしょうか。アチューンメント(伝授)を受けさえすれば、心が悪しき人でもレイキを使えるのでしょうか。私は、とてもそうは思えません。
そして、そもそも臼井先生はアチューンメント(伝授)を受けていないのです。自力で智慧(悟り)を得ることでレイキが使えるようになったのです。
臼井先生は五戒を唱えるように仰っています。明治天皇謹製の和歌を詠むように仰っています。全ては人格の向上があってこそのレイキだと仰っているのです。